父政宗への恨みに一転した伊達秀宗の「自負」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第86回
■世子から外された秀宗の「自負」
秀宗は1591年に側室新造の方を母として誕生すると、正室愛姫(めごひめ)に男子がいなかったため、世子として扱われるようになります。
そのため豊臣政権への臣従の証として、1594年に人質として出されることになります。翌年には、父政宗が秀次事件への関与を疑われ、伊予への転封の命が下りそうになるなど、騒動に巻き込まれていきます。。
1596年に秀吉の猶子(ゆうし)として元服すると、従五位下侍従に叙任され、秀頼(ひでより)の小姓として取り立てられます。
その後は、関ヶ原の戦いにも巻き込まれています。父政宗が東軍方となったため、西軍が取る人質とされるところを、秀頼の小姓という事で免れています。そして、東軍が勝利すると、伊達家の後継者として、徳川家への人質となるため江戸に向かわされます。
しかし、正室との間に忠宗が生まれると、豊臣家とのこれまでの関係を憂慮され、伊達家の後継者の座から外されてしまいます。
1614年には大坂の陣の報奨として、政宗に与えられた伊予国宇和島10万石を譲られ、諸侯に列するようになりますが、伊達家のために尽くしてきた「自負」がある秀宗の不満は解消されませんでした。
■父政宗との対立と改易騒動
秀宗は父から宛がわれた家臣団を率いて、宇和島に入部しましたが、仙台藩から6万両を借り入れての前途多難な船出でした。
この借金の返済や藩財政の行き詰まりなどから、宇和島藩内で対立が起こります。これは藩政を主導する重臣の山家清兵衛(やんべせいべえ)が、政宗への借財の返済を優先し、藩士に厳しい生活を強いた事が要因の一つと言われています。
清兵衛を疎んじていた秀宗は、最終的に山家一族を誅殺させてしまいます。この一連の騒動は、後に和霊騒動と呼ばれるようになります。
清兵衛を信頼していた政宗は、この事件に激怒し、秀宗に謹慎を命じて宇和島藩の改易を幕府に訴えます。
幕閣の井伊直孝(いいなおたか)や土井利勝(どいとしかつ)の取り成しにより、政宗は訴えを取り下げたものの、感情面における父子間の対立はしばらく解消されませんでした。秀宗は長年に渡り人質として伊達家のために尽くしてきたという「自負」が強く、伊達宗家を継承できなかった事が許せなかったと言われています。
これらの鬱屈とした想いは、後に政宗に直接伝える機会を得たことで、父子間の交流が増え、解消へと向かっていったようです。
■「自負」の強さからくる感情的な対立
秀宗は政宗の庶長子として生まれた事で、長期にわたる人質生活を送ることになり、その間に秀次事件や関ヶ原の戦いなど命の危険がともなう状況に直面させられていました。
しかし、結果的にその人質としての期間を理由として、伊達家の家督を弟に譲ることになり、御家のために貢献してきたという「自負」は、父政宗との対立へと変化していきました。
現代でも企業や組織に長く貢献してきたという「自負」が、報われなかった場合に感情的な対立を生むことは多々あります。
もし、秀宗がその想いを伝える機会が早く訪れていれば、和霊騒動は起きていなかったのかもしれません。
ちなみに、家督継承をめぐる苦労は教訓として残されなかったようで、秀宗の後を継いだ三男宗利と、五男宗純の間で3万石の分知を巡って争いが起きています。
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